弥生なう

2020年から花粉症の症状がなくなった?
いや、今年は危うい瞬間がありました。
どうも東京本社のYです。

今年の花粉飛散量ってどうだったんですかね?
私の鼻が壊れた蛇口のようになった日が一日だけありましたね・・・。
やっぱり治ったと思ったのは気のせいだったんでしょうか。

先月のブログでWさんが和風月名について触れていました。
「弥生」は東京本社のある文京区にも縁があるので、今回はその辺のことを。

文京区には「弥生」という地名があります。
東京大学の言問通りを挟んた北側、農学部のあたりと、事言問通りの南側、工学部9号館のある一帯です。

江戸時代、この辺りは水戸徳川家の中屋敷がありました。
そこに、徳川斉昭が詠んだ歌の歌碑があったそうです。

 名におしふ春に向ひが岡なれば 世にたぐひなき花の影かな
 (春に向かう岡というだけあって、見上げる桜の美しさは他に類を見ないほどだなあ)

「向ふが岡」は、上野台地(現在の上野公園)から不忍池を挟んで向こう側の丘である現在の東京大学のあたり一帯の呼び名です。「春に向ふ」と「向ふが岡」を掛けているんでしょうか、春が進むにつれ向ヶ丘の地に花が咲き乱れて世に類ないほどに美しい様を詠んだものです。
歌碑にはこの歌の詞書も刻まれていました。

 ことし文政十余り一とせといふ年のやよいの十日さきみだるさくらがもとにしてかくはかきつくるにこそ
 (文政11年3月10日、咲き乱れる桜の下でこのように書き付けた)

この歌が詠まれた日時や経緯などが説明されているんですが、最後の「こそ」が強調の意味なのか、願望の意味なのか難しいところ。私はこの「こそ」を強調の意味で読んで「あんまり美しいものだから思わず書いちゃった!」という心情として受け取りました。

明治維新後、屋敷は新政府に没収されてしまいますが、町名を付ける際、弥生の季節を歌ったこの歌碑にあやかって「向ヶ岡弥生町」と名付けられ現在までその名を残しているわけです。

ちなみに和風月名は旧暦を指します。
旧暦3月はちょうど今頃なので、弥生なう。

それにしても、「向ふが岡」の桜はどんな景色だったんでしょうね~。

さらにもう一歩。

弥生の名がついた数年後の明治17年のこと。
この地の土中からあるものが発見されます。

土器です

そう、子供の頃必ず習いますよね。弥生時代・弥生人・弥生土器。
弥生町で発見されたことから、弥生(式)土器と名付けられ、その土器が使われた時代を弥生時代と呼ぶようになりました。

このことを知ったのは2016年のことだったんですが

弥生時代の弥生って何?????

という子供の頃の疑問が一つ解けた瞬間でした。まさか、発見された地名に由来していたとは。
(私が習った歴史の先生はそんなこと教えてくれませんでした!)

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